カテゴリ:追憶( 62 )

涙。


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数日前のことでした。。
展示された一枚の写真を見つめていて。
知らぬ間に涙がこぼれていた情景を。。書かれているのを読んでいて。。

もう50年近く前のこと。。
ふと入った写真の展覧会場で。
少女が目に涙をたたえた写真を見て。。
わけもなく感動してしまい。。
たった1枚の写真が人間の気持ちをこんなに揺さぶられるのなら。
写真を写す仕事をしたいと思ったと。。
ある時。夫はちょっと恥ずかしそうに話していたことを思い出していました。

その写真は。
1947年。ハンガリーにソ連が侵攻した頃に。
ワーナー・ビショフが写した。
ただただ小さな子供が涙を流している様が。。
それだけで背後にある全てを物語るような気がすると
今、私が見ても思えるような写真でした。。

ただ夫はできれば。
国際紛争のような劇的な場での写真でなく。
日常の暮らしの中で。ほっとするような場面や。
ひたすら彼自身が「ああ綺麗だ」と思えるような写真を写したいとは願っていて。
日々。太陽の位置を確かめ。
あの時間になれば。。あの辺に影ができるか。。などと。
せっせとその場所までひたすら歩いては。。
「あかんかった。写らへん。角度違うかった」などとぼやくこともしきりで。
また。何日か前に写した場面を現像しては。
真っ暗な暗室の中で。バットの中に思った通りの絵がぼーっと浮き上がることが。
ある意味では至福の時間かもしれないと。。
ただそれが度々起こらないのが悲しい。悔しいと笑ってもいました。。

「光と影をおいかけて。
もしもそれができうるならば、空気も匂いも写したい。。」
夫が遺した言葉です。

12月2日。
生きていれば今日は夫の誕生日でした。
72歳おめでとう。。

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この2枚の写真は夫が写しました。








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by fusk-en25 | 2018-12-02 09:30 | 追憶 | Comments(4)

編み物の季節に。。

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「編み物は不思議やな。。1本の毛糸でセータやベストができてしまう。」
今年11歳の孫が生まれる二ヶ月ほど前のことだったか。
赤ちゃん用のセーターを編んでいる私を見て。
夫がボソッとつぶやいた。
「それでな。僕にも編み物を教えてくれる?」
「ええっ。なんで?」
「僕も赤ん坊に何かプレゼントしたい。」
そう言うならと編み方を教えて
最初は指がひきつる。ややこしいなどとぼやきながら。
裏表なしのガーター編みのマフラーができた。
ものができるのが嬉しかったのか。。
「編み物も結構面白いもんやな。今度はベストを編んでみる」と言い出す。
毛糸を見に行って。勿論まっすぐにしか編む気がなくて。
目の増減は私にやらせて。「できた。できた」と喜ぶ。
時々「ここ目がとんでるからほどき。」と言うと。
「こんなに編んで解くのは嫌や」と言うので。まあいいかとそのままにしたこともある。
ベストも2枚ぐらいは編んでいた。

死ぬ半年ぐらい前だったか。。
今年の孫の初誕生にはベストを編むと張り切って。
それも新しい毛糸は面白くない。古いセーターを解いて編みたいなどと
おかしなことを言い出した。
まあそれもいいかと随分前に私が編んだ夫のセーターを解いて。毛糸を洗い。。
編み出したのだが。。
後ろ身頃を編んで。
前身頃の3分の1ぐらいで力尽きたのか。完成にまでは至らなかった。

その翌年の孫の2歳の誕生日に。
後ろ身頃は夫が編んだそのままに。
前身頃は私が編みなおしてベストを完成させた。
「後ろはジジが。前はばあちが編みました。」
とカードを書いて孫に贈った。

編み物の季節になると。。思い出す。。
ちょっとセンチな?。。ですね。


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by fusk-en25 | 2018-10-24 08:21 | 追憶 | Comments(12)

たまたま?

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「茶碗屋はなあ。ちょっと工夫ができたらこんな面白い商売はないで。」
と舅はいつも言っていたが。
そのちょっとした工夫も。「たまたま」こうなったと言うこともあったらしい。
右側の削ぎの入った縞柄の湯呑みは。
夫が14、5歳の頃。
素焼きのどこかに歪みかか何かがあって下物になった湯呑みに
仕事場で面白半分に線を引いていたらしい。
その湯呑みを舅が普段使いにでもするつもりだったのか。。何気なく釉薬をかけて焼いた。
焼きあがった湯呑みを見た問屋が
「おやっさん。これ、面白い」と言って注文されて。
この湯呑みが一時期に爆発的に売れたという。
夫は「俺のデザイン」なんて威張ってた。
舅が釉薬の配合を間違えて、
色が明るくなりすぎた呉須に「大正呉須」と名前をつけたこともあったらしい。
「またそれがよう売れてなあ。」と笑ってた。

左側の四君子の湯呑みは実は未完成のもので。
本来は素焼きの部分に後で色をつける。
私が赤や緑の変な色がついてるよりこのままの方がいい。欲しいと言うと。
「けったいなこと言う子や、素焼きの部分が汚れてくるで。未完成やのになんでこれがええのや?」
不足そうな顔をしながらくれたが。
絶対にこの方が洒落ている。
欲を出して。もっと作ってもらえばよかった。。
でもたった一つしかないのがまたいいのかもしれない。















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by fusk-en25 | 2018-10-20 09:52 | 追憶 | Comments(4)

陶器を見ていて。。

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舅の作った陶器を見ていて。
私が嫁いだ頃はもうすでに登り窯から電気の窯に変わっていた。
何事も研究熱心だった舅は。
その地区に何軒かあった窯元の中でもいち早く電気の窯を取り入れて、
色々な色合いを試していて試行錯誤をしていたらしい。

その頃。おそらく昭和30年代の末のことだと思う。
京都は元々左翼系の強い地域で。
誰が考えたのか職人の賃上げ闘争を指導した人がいて。
何軒かあった窯元に職人のストライキが起きた。
窯元の親方はそのストライキに対して唖然として。
「ええ?わしらが搾取してるてか?
職人よりよっぽど長い時間働いてるのはわしらの方やで。
職人に仕事を回す算段するのに夜なべまでしてるちゅうのに。なんちゅうこっちゃ。
あいつらがおらんでも仕事はできる。」
と親方全員が怒ってしまい。ストライキをした地域の職人たち全員の首を切ってしまった。
「それが発端になってな。
登り窯の窯焚きもいらんように。みんな電気の窯に移行したんや。
そのあとで職人が頭下げて使うてくれ言うても誰も雇えへんかった。」
地域の事情も考えずに賃上げ闘争を指導した者の、馬鹿さ加減というか。
割りを食ったのは実は職人たちだったという悲劇のような話で終わってしまう。。

時代的にも窯を移行する時期に来ていたのだろう。
「薪の値段も窯たきの費用も上がってたしな。。」
電気の窯なら。登り窯のように月に一回焚くと言うことも無くなり。
常時少しづつものは作れる。職人がいなくても家内だけで作るのも気楽だったらしい。
でも月に一回登り窯を焚く緊張感や活気が失われたのはちょっと寂しかったな。
と夫は笑いながら言っていた。

家内総出で窯を詰めた時の家族の嬉しさがわかるような写真が残っている。



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by fusk-en25 | 2018-10-16 07:50 | 追憶 | Comments(2)

冷やし素麺の。。

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暑さが続いている。
「ちょっとぐらい暑い方が夏らしくていい」などと誰が言った。と
自分に毒づきたい様な暑さにはなって来た。
それでも何年か前に味わった43度が1週間居座った時の乾燥した風ほどは
まだ暑くはない。と慰める。。

陽のあるうちは暑くて。自転車に乗るのを日が落ちてからにして夕方遅くに走るのだが。
通り過ぎる道路でも横に菜園がある場所は水をたっぷり撒くからか
通るとひんやりして。水って大事だなあと改めて思ったりもする。

夕飯は冷やし素麺とサラダにした。
かち割りタイプの氷をいっぱい入れて。
ツユもしっかり冷やして。薬味に青紫蘇や細ネギを刻む。
「これぞ夏」の味がする。

冷やし素麺といえば。
もう何十年も前のことだが。
夏休みに私と息子だけが日本に帰り夫が残った年がある。
夫は普段は料理などほとんどしないが。
実家にいる頃は母親の忙しさに見かねてか?
料理もまめに手伝っていたと言う。
天ぷらなど私が揚げるよりはるかに上手だった。
それでも自分で素麺を湯がいたことがなかったそうで。
「冷やし素麺を食べようと思ってな。。素麺を5束湯がいたらなあ。
びっくりした。お鍋いっぱいできたんや」
「それでどうしたん?」
「一生懸命食べたけど。3分の2ほどで諦めて。捨てた、勿体無かった。。」
麺好きの夫のことである。
帰って来た私にほとほと困ったと言う顔をして笑いながら告げた。

鍋いっぱいの素麺をどんな顔をして食べていたのだろうと。
想像しても。。今だに可笑しい。
こんなことを。。
素麺を食べながら。。ふと思い出した。


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by fusk-en25 | 2018-07-27 08:20 | 追憶 | Comments(6)

39年。。

6月6日。
39年前のこの日。(1979年)私たち家族はパリにたどり着きました。
日本を出立したのは。同じ年の5月30日。
新潟空港からJALに。。ハバロフスクからモスクワはアエロフロートに乗って。
モスクワからは列車でヘルシンキに行き。
ヘルシンキでレンタカーを借りてトゥルクに。
トゥルクからストックフォルムへはカーフェリーに乗り。
ストックフォルムからパリに飛んできた日でした。

直行便はまだ飛んでない時代でも
アンカレッジやモスクワ経由でいくらでもパリに簡単に来れる飛行機の便はありました。
しかもパリには旅行でなく住みに行くと言うのに。
あえて。。
新潟からハバロフスク経由にしたのは、
実は。。
私が旅行が嫌いで、パリに住み着くと。おそらくどこにも行きたくないと動かない。
だったら。。行くまでにちょっと寄り道をしよう。
こんな機会でなければ、まだソ連と呼ばれていた国を通ることもないだろうと。
日ソツーリストに予約したのです。
さすがにモスクワまで船や列車の長旅の移動はきついので。
飛行機を使うことにして。。

前日の5月29日。
大阪の伊丹空港から新潟までは、舅も一緒に。。
「新潟まで送るわ。。お前らが立った後は良寛さんのお墓に詣でるよってに。」
と半分言い訳しながらの。。長兄の家に泊まった舅と空港で待ち合わせて。

新潟に泊まった翌朝。
「お父ちゃんが空港にまで送ってくれたら。。帰りは一人やろ。かえって心配や」と
宿の前で別れて。とぼとぼと商店街を歩いて行った舅の。。寂寥感にあふれた後ろ姿が。。
今だに目に残り。。。姑はその2年前に亡くなっていました。
一番仲が良かった?末の息子の家族まで
他国に行ってしまうのは舅としても惜別の感は多かったのでしょう。

新潟発のJAL便に、
大きなスーツケースを2つ、親子3人が各自リュックも担ぎ。
カメラの入った小さめのトランクも2個下げて。
おそらく200キロ以上はあったかと。。
「民族の大移動みたいやねえ。。」
係員も「こんな重い荷物は新潟空港始まって以来初めて」と笑われたものでした。
この飛行機。乗客はたった8人で、超過料金を取られることもなく。。
「空いてますねえ。」と乗り合わせた人に話すと
「今日はまだ多いぐらいですよ。僕は前にたった一人で飛んだことがありますよ」
商社の森林部でハバロフスクに材木の買い付けに行くという方が言われる。
ハバロフスク一泊の後にモスクワまで乗ったアエロフロートも
当時まだソ連だった国策として。
外国人はファーストクラスに乗るのが義務付けられていて。荷物の重量制限もなかった。
ただしこれが本当にファースト?と尋ねたいくらいにエコノミーと変わらない。
座席が飛行機の前か後か程度の違いでした。
唐丸カゴのような、鶏を3羽も入れた籠が持ち込まれていたローカルな飛行機。
機内食も何を食べたのかまるで覚えはなくて。


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               ↑対岸が見えないほど広いアムール河
                ↓ハバロフスクの林檎ジュースの自動販売機の前で

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1泊したハバロフスク。
きちんと日ソツーリストからガイドもついて。街の案内もしてくださって。
この地方は石炭の露天掘りができる環境から
ホテルの給湯も暖房も快適で、かなり清潔な宿でしたが。。
食べ物に野菜がない。何か青いものを食べたいと頼むと
「ネギにゆで卵がのっかたサラダ」が出てきて。
主菜で覚えているのはチョウザメのスープ。
キャビアの残り物ね。。と思いながら食べても、これは意外と美味しかった。

モスクワの滞在は2泊。
場所こそクレムリンのすぐ側でしたが
超高級なホテルなのにすすけた感じがする(モスクワ・オリンピックの1年前なのに)
旅行条件になっているガイドも人員が足りないからとつかず
食事券も物価に合わない。どこに行っても監視の目が光る。
「トルストイやドストエフスキーを生んだ国なのに。。」と言う勝手な思い込みの
ロマンチックなイメージが儚く消え。。

夜行列車に乗って。ヘルシンキに。
国境を超えた途端に「コカコーラ」の看板が目をひきました。
「ああ、やっと西側に来たのだ」ものが自由に買える。。
ってたった3、4日のことというのに、やっぱり東側では幾分緊張もしていたのでしょう。
たいして好きでもないコカコーラを自動販売機で買うのが嬉しくて。
この街にも1泊はしたのに。どこを見たのやら。
覚えているのはレンタカーの事務所だけでした。


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                   ストックフォルムに向かうカーフェリーにて


レンタカーで。トゥルクまで田舎道を走り。
トゥルクでレンタカーを乗り捨て。
カーフェリーで対岸のストックフォルムに2泊。
フェリーに乗った途端。北欧の人々の背の高さが目につきました。
ストックフォルムのホテルは予約をせずに観光案内所で探して。
旧市街のレストランで鮭の分厚いステーキを食べたのが美味しかった。。
そこからパリまでは飛行機で。。

たった1週間足らずとは言え、何カ国も経由して。。
色々なことがあったり見たりしたはずなのに。。
こんなことしか覚えてないのは。。
人間の記憶の何とあてにならないことかとつくづく。。
今思ってももっとちゃんと記録しとくのやった。。
写真すらほとんど写してなくて。あんなに沢山機材も運んだのに。。

2009年6月6日。
たどり着き住み始めた日を記念して。
30年目にはお祝いもしようと約束をしていて。。その年の2月に逝った夫が
ノートルダム寺院の後陣が最も美しく見えると。。
彼がこよなく好きだったサンルイ島のオルレアン岸から。
セーヌ河に友たちと花輪にほんの少しの遺灰をつけて散灰をした記念日。

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その日も花輪はゆらゆらと。。遺灰を携え。。流れて行きました。
明日から私のこの国の 40年目が始まります。





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by fusk-en25 | 2018-06-06 07:58 | 追憶 | Comments(10)

苧環を眺めて。。

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もう40数年前のこと。。
ここに住み始める前の一時期。。
夫が「花」の写真ばかり写していたことがありました。

叔父がテキスタイルデザインの会社をしていて。
まだバブル期の前で。叔父の会社も少しづつ大きくなり出した頃でした。
何を思ったのか。その叔父がすでにある図案から図案を描くのは面白くない。
できれば生の花や写真から図案を起こしたいと言い出して。。
そのために写真を写して欲しいと夫に話を持ちかけられ。
私たちはその前年に1年間。。
パリや南欧の放浪生活を切り上げて帰ったばかりで
まだ何をするとも決めてない時期だったこともあり。
「花なんか写したことないけどやってもいい」と。
植物園や知人の変わった花を植えておられるところなど。
四季様々な花を写し始めていました。。
たまたま信州の花卉園芸の展覧会があるのを何かで見つけて。。
4泊5日ぐらいの撮影に私も付いて行き。

まだ「ペンション」ができ始めた時代。。物珍しさもあって。。
原村のペンションにも泊まってみたのです。
その頃の原村はペンションもまだ数件しかなく。周囲は原野のままで
野生の苧環や吾亦紅が群れ咲き。なんとも魅力的な光景でした。

泊まった翌朝。村役場主催の園芸種の花の展覧会を見に行き。
出品されていた農家のおじさんたちに何気なく
この辺りの地価はいくらぐらいかと尋ねてみたら。
「今なあ。役場で別荘地にする土地を売ってる。
ここの2階の事務所にあるわ。カタログもろといで」と言われる。。
地価を知りたいだけで買う気なんかないのに。
それでもそのカタログをもらい。
もらって来たカタログをおじさんたちは。。またああでもないこうでもないと物色されて。
「買うのやったらここがええ。後ろに小さな小川も流れていて。隣近所が少ない」
そんなこと言われたって。。お金もないのに。土地なんか買われへん。。
と思いながら。。
ちょうど昼時、ここらあたりに食堂がないかとまたおじさんたちに尋ねたら。。
その中のお一人が。。
「わしも帰るとこや。付いといで」と言われて、車について行きました。
道中。。食堂らしきものは見当たらない。。
気がつくと普通の民家の中庭に車が止まり。。「ここで降りて。。」と言われる。
ええ?ここに店があるの?
と不思議そうに思ったら、なんとその方のご自宅で。
「母ちゃん。この人たちに蕎麦を湯がいてやってんか」と台所に声をかけられ。
全く知らない家で美味しい蕎麦をたっぷりとご馳走になり。
人の暖かさに触れたと言うか。
あの幸福感は今だに忘れられないものとなりました。。

後日談。。にはなりますが。。
あの幻想的な野生の苧環に惹かれて。。
その土地を買いました。
その頃持ち金は一銭もなく。。土地についていた村のローンを使って。。
そして今だにその土地を持っています。
もう住みには帰らないのにねえ。。と言いながら。。

ベランダに今年植えた苧環に。。
白い花が咲きました。。原野に群れ咲く野生の苧環には比べようもないけれど。。
懐かしい気持ちで眺めました。。







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by fusk-en25 | 2018-05-17 07:03 | 追憶 | Comments(8)
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鯉のぼりには郷愁を覚える。
子供の頃。お雛さんを買って欲しいとは思わなかったが。
雄大に泳ぐ「鯉のぼり」は欲しかった。祖母に買って欲しいと言うと。。
「なんぼなんでもそれだけは買われへん」と苦笑しながら却下された。
祖母自身も男に生まれたかったと言うから。
家の屋根に登ったり。昆虫採集をしたり。
男の子のやりそうなことを私がしても叱らなかった祖母が。。
さすがに女の子しかいない家に鯉のぼりを立てることはできなかったのだろう。
五月晴れの空の下。。田園に翻る鯉のぼりを見るたびに残念だなと思う。
この鯉のぼりは2013年に義弟達と訪れた白川郷で泳いでいた。

日本にいた頃だから。。もう40年以上も前のことになるが。。
端午の節句に
粽を川端道喜に注文したことがある。
その頃大阪では阪神百貨店の菓子売り場の隅にひっそりと
小さなショーケースにその日の分だけ水仙粽と羊羹粽の2種類を
ほんの少しだけ置かれていて。数が少ないから早くに売り切れることも多く。
買うと「今日中に召し上がって下さい」と必ず言われてもいた。
川端道喜は他では注文販売しかやっていなかったと思う。
中でも私は葛でできた「水仙粽」が好きで、
「いっぺん。お節句に川端道喜に注文して買いに行かへん?」と夫に相談すると。
「行こか。帰りに京都の家に寄ってもいい」という返事に。
いそいそと何日か前に注文して下鴨まで出かけた。

その頃の川端道喜は。周囲のことはもうあまりよく覚えていないが。
鄙びた里の一軒家の風情で。田舎屋風の玄関を開けると土間があり。
土間の端っこに竹で編んだ大きな盆籠に粽だけが何束か置かれていた。
おそらく土間の奥が仕事場なのだろう。暖簾をかき分けて大人しそうな女の人が。。
「ご注文を受けたまっておりますか?」と名を尋ねられ。
名のるとクルクルと粽を紙に巻いて渡してくださった。
たったそれだけの。なーにも飾り気のない店構えに。。またかえってそれが清々しく。
こんな買い物はいいなあと思ったものだった。

勿論、夫の実家の分も注文していて。
道すがら錦の市場で美味しい言われていた柏餅も並んで買って。
持って行った。粽を見た途端に姑が。。
「ええ?あんた。大阪から粽なんか下鴨まで買いに行ったん?物好きやな。」
「暇人やと思てるやろ」と笑いながらも。売り言葉に買い言葉。。
「そら。電車道の餅家にも粽ぐらいは売ってるわな。。」
「ふん。あそこの粽は美味しいねん。夕方に買いに行こと思てた」
要らんかったら持って帰ると言うと。「そんな珍しいもんやったらもろとく」と答える。
姑らしいなあとは思いながら。。
柏餅は一緒に食べて「この柏餅なら別に錦で並んで買うほどのことないなあ」などと
みんなで文句も言い合い。
和気藹々だった。昔の節句が懐かしい。

お節句のために粽もどきでも作ろうかな。。と笹の葉を水につけました。



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by fusk-en25 | 2018-05-05 07:12 | 追憶 | Comments(6)

懐かしい味。。

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数日前に京都から来た友人が持って来てくれた
鰊の甘露煮。
勿論。。かの有名な店のもの。。

有り難くいただいて。「鰊蕎麦」を作って食べた。
真空パックに2切れ入っていて。袋のまま温めると風味が増すと書かれている。
いっぺんに2切れは食べられない。
おつゆたっぷりの蕎麦にするから、蕎麦湯は飲まない。
茹で汁に鰊一切れを5分ぐらい入れて温めてのせた。
彩に花麩も入れて。
青みは何日か前に蒔いたラディッシュの貝割れ菜をのっけた。
懐かしい味で美味しかった。

鰊蕎麦を売り物にしている松葉は。。
大阪人の私から言わせると。
京都のちまちました格好ばかり美しくて
その割にお腹にたまるようなものがなく。
しかも値段だけはやたら高い京都の食べ物屋の水準から見ると。
味も値段的にも頃合いの店で、麺好きの私たち家族は度々食べに行った。

10年ほど前になるが。
両親の墓参りに夫と二人で京都に行き。
京阪電車を降りて河原町をぶらぶら歩いて。
「蕎麦でも食おうか?」とやっぱり松葉に行った。
マンの悪いことにその日店は臨時休業をしていて、
ただし近所の支店が営業していると張り紙がしてある。
そこでもいいかと入って。いつもの鰊蕎麦を頼んだと思う。
味はそう悪くはない。ただしサーヴィスがひどく悪かった。
本店も行き届いたサーヴィスをする店ではない。
でもこじんまりしたせせこましい蕎麦屋だから
サーヴィスの悪さも庶民的な感じでそうも気にならなかった。
支店の方はまただだっ広い店で。昼時の忙しさから少し外れた時間だったせいか
たまたまお客も少なかったからかもしれないが。
女店員が声高に世間話をしている。
それを聞いていると蕎麦が喉につかえるような気がした。
何も高級レストランのような給仕をしてくれと言っているわけではない。
でも休んでいるらしい同僚の悪口を大きな声で話すことはないじゃないか。。
運んで来た蕎麦もどしんと置かれた。
そそくさと蕎麦をかきこんで。
外に出て「躾のできてへん店やなぁ。。」夫と二人で顔を見合わせた。
そういえば勘定を払っても「有難う」とも言われなかった。。
「おおきに。またお越し。。」と言われても。もう行けへんけど。。
 

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by fusk-en25 | 2018-04-04 08:01 | 追憶 | Comments(4)

桜の頃に。。

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満開の桜を見ると。。確かに美しいとは思う。
華やかで妖艶でしかもひらひらと舞い散るのまで美しい。

でも満開の桜を見ると。。
いつもなんだかもの哀しい気分が起こってしまう。。
前にも書いたが。。(https://kiramekuhi.exblog.jp/25101708/)
あの日も桜が満開だった。。
姑があっという間に逝ってしまった日。
62歳で。。いくら慌て者の性質だからと言っても。。
「ほな。さいなら」とあんなに早く逝かなくても良かったじゃないか。。と。

早朝の確か5時頃。舅から電話がかかってきた。
「お母ちゃんおかしいねん。ちょっときてくれへんか?」
1週間前から頭が痛いと寝ていた姑。
虫が知らせたというのか夫も私もその夜は寝つきが悪かった。
電話を切って。すぐに4歳の息子を毛布でくるんで車の後部座席にほりこみ。
早朝のこと車の渋滞も少なく、大阪から京都まで飛ばしに飛ばした。
8時ごろまでには着いたか。
着いたところに夫の従兄のライトバンの後部座席に。それも毛布で包まれた姑が帰ってきた。
「ええ。。どうしたん」
「お母ちゃん。死んでしまった」
救急車を呼ぶ時点で既に亡くなっていて。病院に搬送はされたが、常勤の医者に。
このまま連れて帰ったら解剖もしなくていいと言われて死亡診断書だけもらって帰ってきたとのこと。。
周囲は全員。まさか?と呆然たる面持ちだった。
兄嫁たちも姉もまだその時刻には着いていない。
近所に住んでおられた姑の同郷の幼馴染のおばさんが。
姑を清めてあげると言って準備をされだした。
「おばさん。こんな着物でよろしいの?」とたまたま側にいた私が。
姑の箪笥の何枚かの着物の中から、私好み?の着物を選んで。。
その着物を見たおばさんが、一瞬。はっと息を飲んだ顔をされた。
すぐ後に「それでいいと思います。」とニッコリされる。
今になって思えば。。
おそらく姑の持っていた着物の中で一番高価な。。よく覚えてないが結城だったような気がする。
着物を買うのにもその方と相談していた姑のこと。
高価なものであるのはご存知であっただろう。
「物の知らん嫁さんやな。。でもこれ着れて良かったなあ」と思われたかどうか。。

もしもあの世と言うところがあったら。
入り口で。。「おまはん。ええ着物を着てるな。」との門番の問いに。
「物知らずの嫁が着せてくれましてん」と答えて、
ちょっと嬉しそうな誇らしげな顔でもしてないかと。。変なことを夢想もして。。
「あの着物を着ていって。おかあさん。良かったね」
どこかの箪笥の肥やしになるより。よほど良かったと思う。

今日は姑の祥月命日でした。
桜の代わりに見頃の連翹の花を手向けましょう。。





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by fusk-en25 | 2018-04-03 07:26 | 追憶 | Comments(8)