もしもなら。。。
2016年 06月 21日
もともと高血圧症で、心臓にも軽い持病があった。
高齢でもあるからと主治医にも見放されて、
それが。。倒れてから4日目に意識が戻った。
もちろん、半身不随・失語症の後遺症は残った。
3ヶ月ぐらいは流動食だけで生きていたと思う。
当時のことだから簡単なリハビリの手引きはあったものの。
訪問介護のシステムもデイケアなどというものもなく、入院させるか、自宅療養しかなかった。
どうせそんなに長くもないだろうと自宅で看取ることにして。
そのうちに歩けないが座れるようになった。這うこともできる。
言葉は「はい。いいえ。ありがとう。いらん。知らん。あかん。嫌、そやなあ」
ぐらいが言えるようになった。
この幾つかの言葉で死ぬまでの1年8ヶ月暮らすのも、今から考えると大変だっただろうが。
私が24歳、母が46歳の若さで、そんなことを気にかけてもやらなかった。
病人のくせに祖母は明るかった。体が動かなくてもめそめそしない。
いつもニコニコ笑っていた。
見舞客が来られても相手の話に上手にふんふんと相槌を打つから。
客は祖母がわかっているつもりで話されるのだが
その人が帰られた後に。
「知らん」と答えるのだからその役者ぶりは傑作だった。
祖母の病中、半年ばかり私が結婚して東京に住むことになって。
母も働いていて。昼間は半身不随の祖母が一人で暮らしていた。
昼には母が朝に炊いたお粥を電熱で温め、ポットに入れたお湯でお茶を飲み。
排泄はベットの横に置いた簡易トイレで処理もするという。
全く手のかからない病人だった。
その当時は。。
半年ほどして私は夫とともに実家に帰り
その後の1年余りの間にも、小さな血管が詰まったり切れたりするのか。
月に一回ぐらい起こすひきつけは。
最終的には、私の息子が生まれる10日前に亡くなる。
寝たきりの病人と赤ん坊の世話をするのは大変だろうと死期を悟ったのだろうか?
周囲の人たちからは「入院もさせはらへん」と陰口は叩かれた。
でもその時は自宅療養がベストだと私も母も思ってはいて。
本当はどちらが良かったかはわからない。
家にいたからぼけなかったと思うのも私の自己満足にしかすぎないのかもしれない
たとえ手がかからない病人でも。
祖母の世話を面倒だと思ったことは度々ある。
でも介護していると思ったことは私にはない。
むしろケアという言葉は嫌いだった。一緒に暮らしているだけやんか。
とその当時も思っていたし。今もその気持ちは残っている。
今日はその祖母の生まれた日だった。
高齢者は環境が変わると、私の見た限りボケも加速するのは顕著です。
夫の母が認知症の症状が表れてから10年、現在は施設暮らし3年目ですが。
施設に入れた当初、夫はあまり母の元を訪れようとしませんでした・・・(自宅から徒歩2分の所を選択して入居)
あんなにマザコンだった夫が何故!?と思ってましたが、施設に入れざるおえなかった事を昇華出来ずにいるのだと!察しました。(施設のサービスも良くなかったし)
転居してからの施設は ちょっとした避暑地の保養所並だし、サービスも行き届いています。
それからは週2,3回通うようになりました。
もう息子のことも自分が誰かも分からない状態ですが、
「今は あれで幸せだよね・・・自宅じゃ 見きれないもんな」と、自分を納得させるようにつぶやくことがある夫です。
「おふくろが病気なったら俺が引き取るから!そのつもりでいてくれ。」と、長年言われてきたので
それが回避できた私は、内心ホッとしています。
認知症でなければ、きっと私が看ていたでしょうから。
祖母のことをそんな風に言って頂くと嬉しいです。
あの頃は今のように介護の制度ができていませんから。
ああするより方法はなかったというものの。
自分の家で生を全うできてよかったかとは思います。
介護の問題はこれからもどんどん色々不都合なことが出てくるでしょうし、
それを仕事にする人のこともとやかく言いたいことも多々あるでしょうが。
もしも私自身がその仕事についていたら。言えるほどのことができるだろうかとは思ったりもします。
3年前に日本に帰って高級な施設に入っておられる方を見舞いに行ったのですが。
高級でも侘しいとかえって思ってしまいました。
難しいですね、こういうことは。どうなってもベストと言えなくて。