煌めく光の中で


by fusk-en25

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誕生日

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4月15日 70歳の誕生日を迎える。
私は母の実家で生まれた。
戦後すぐのこと。一般的には病院や産院での出産はまれで
産婦に異常がなければ自宅で出産するのが普通だった。

その日 母は弟と町内の防空壕を埋める作業に昼まで出ていて
お腹が痛くなってきて「ちょっとお腹痛いわ」と言うと
心配した弟が「オネエ、もう帰り」と促され、家に帰った途端に生まれたという。
軽いお産だったようだが、
21歳の若さはすごい。。身重で土木作業にでるなんて。私なら考えれない。。
その上可笑しいことに。父は新聞記者をしていたが
その日は「赤ん坊が生まれる予定だから」と社を休んでいた。
ええ?休んでいた父が作業に出かけなかったのか?と不思議な気もするが。
町内の仕事。特に土木作業など自分がやるものではないと思っていたのかどうか。。。

生後8ヶ月の時に父は発病し病院で療養生活を送ったあげく
私の2歳10ヶ月の時に死んでしまった。彼がどんな人か私は知らない。
父が死んで母は実家に帰った。引き続き私は生家で暮らすことになる。

生家の庭には 誕生日の頃になると毎年必ず
縁側のすぐ横に、家を建てる昭和12年に鉢植えから庭におろした「花海棠」が満開になる。
大きなピンクの花びらでたわわに咲く様は本当に綺麗だった。
私が物心ついた頃はもうかなり大きな樹になっていて。
今年もあの花海棠が咲くだろうかと。思いをはせる。

その下で今年。生家を処分する最後の花見をすることになる。
懐かしいようなちょっと寂しいような誕生日になることだろう。
     (写真はルクセンブルグ公園の海棠。出かける前に予約投稿しました。fusk)
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by fusk-en25 | 2016-04-15 14:45 | 追憶 | Comments(9)
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旅行にきた人に「何かパリらしいお土産はありませんか?」と
よく尋ねられる。
「私が聞きたいくらいやわ」と答えるとみんな呆気にとられた顔をする。
本当に私にも何がいいのかわからない。
40年近く日本を離れていて
何が日本では珍しく 何を喜ばれるのか。もう全くわからない。
まして何万円もの高価なものならいざ知らず。
ちょっと行ってきたからと渡す程度の土産などたかがしれている。
五色豆や生姜板でもわかるように名物にうまいもんなしである。
そしてまたちょっとしたお土産になりそうな物なら
日本の方がはるかに小綺麗に体裁が整えられていて、よほどおいしかったり安かったりする。
それでも帰るとなると、何か喜ばれそうな物はあげたいと私でも思う。
これがたいそう難しい。
相手の好みもあるし。会う人の数も多くて荷物の重量を考えるとほとほと困る。
仕様がなく今日も好みのBIOの店でハーブティをいくらか買ってきた。

明日から一月近く旅に出ます。
ブログの更新もしばらくお休みします。

5月になればパリも本格的な春から初夏に向かうだろうと夢見て。。。
それにしてもマロニエも銀杏もプラタナスも。。銀色に光り輝く新芽はなんて綺麗なんだろう。。
今は小さなマロニエの葉もゆさゆさとたわわになる頃、帰ってきます。       fusk
                                                                                                                  
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by fusk-en25 | 2016-04-05 04:22 | 挨拶・お知らせ | Comments(2)

縫い直す。。

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ポシェットが傷みに傷んだ。
何年も前に絽の着物の端切れを紐に縫い袋に編んでこしらえていると。
途中の作業を見ていた嫁は。「まあ紐から作っている。気狂いだわ」と笑った。
そのポシェットが吊り紐の横の体に擦れる部分から傷んできて。
引きちぎれそうで危ない。
どうしようかと思いながらもこんな風に袋に編んだのはこのポシェットが初めてだったし。
なんども試作しながら作った愛着もあってなんとなく捨てるに惜しく。
修理することにした。
少しの端切れで作ったから同じ布はもう残ってなくて
合いそうな布をあれもこれもと引っ張りだしては、合わないと悩む。
気の長い作業だ。。

この編んだポシェット以外の物もかなり擦り切れてきた。
カメムシの刺繍はもう触角も手足も擦り切れ、胴体しか残ってない虫がいる。。
作った時の写真を見て比べたら
使い込んだ物は色も褪せてまるで違うポシェットのように見える。
表はまともでも中に貼った裏布が擦り切れている物もある。
毎日使うものだから仕方がないが。
これだけのポシェットの中に満足に使えるものはもう2個か3個しかない。。
全部直す気はないが使えるものは修理してでも使おうか。
それより新しく作った方が簡単かもしれないと苦笑もしながら眺めていた。
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by fusk-en25 | 2016-04-04 07:53 | 手仕事 | Comments(0)

桜を見れば。。。

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あの日も桜が満開だった。
姑がアッという間に逝ってしまった日。
62歳。
身内の誰も「おかあちゃんが死んでしまう」なんて想像できなかった。
いつ家に行っても、姑がぼんやり座っているところなど見たことがない。
姑はいつも家の中でも、走って暮らしていた。
漬物も佃煮も自家製だし 家事に加え家業の窯元の仕事も一人前にこなして。
まだ夜なべに繕い物までしていた。家の中もいつもきちんと片付いていた。
働き過ぎるともしも誰かが言っても。こんなことは当たり前だと怪訝な顔をしただろう。
死ぬ1週間前に頭が割れそうに痛いと珍しく寝付いた。
たまたま私も体調を崩していて見舞いに行ってやれなくて。
京都に仕事で行った夫が立ち寄り
「おかあちゃんひどい顔をしてた」と帰ってきて話す。
もともと血圧は高かった。
姑の父親は50何歳かで頭が痛いと言いながら急に倒れて亡くなったことを聞いていたので。
町医者では心もとないから病院に行くように進めた。
本人もいくらかいつもと違う気がしたのだろう。
翌日病院に行き問診を受けて「様子をみましょう」と何の検査もせず痛み止めを処方され、
それを飲んで痛みが止まったと動いたその夜に死んでしまった。
おそらく「くも膜下出血」ではなかったかと私は思うのだが。
きっと病院でも自分の状態をちゃんと喋らず。
父親がそんな亡くなり方をしたことも話さなかったと想像する。
愛知県の片田舎にに生まれ京都に嫁してきて。
都会や自分の方言に対してのコンプレックスも少しはあったのだろう。
まして京都という特殊な?土地のこと。
医者や学校、銀行、役所などの公的?な場所に話に行くのは嫌がった。
「なんでもそういうことはお父ちゃんにしてもらう」で暮らしてきて、
私が嫁してからは何か用件ができるといつも駆り出され。
舅が気胸で入院した時は心細がって。医師の話を聞きに行ってくれと懇願された。
その時も私の体調さえよかったらきっと病院に付いて行ったのに。
ついていけば私のこと、くどくどと医師に尋ねて原因を調べてもらった気がする。
私が行かなかったから死なせてしまったのではないかと
長い間 可哀想なことをしたと悔やんだものだった。
桜室と桜にちなんだ戒名がつけられたのがぴったりなほど亡くなった日は桜が満開だった。
もうそれも40年に近い日が過ぎた、姑も随分遠くまで行ったなぁと思う。
4月3日。姑の祥月命日でした。
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by fusk-en25 | 2016-04-03 04:43 | 追憶 | Comments(3)

思い出の。。

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思い出のカメラ。。
夫がいた間、私はカメラには触ったこともなかった。
今でこそデジタルカメラでオートフォーカス、手振れ防止だから写すこともできるが
以前はフィルムの入れ替えも知らなかった。
家に何台カメラがあるのかも実は知らない。
台数はかなりあるのだが、いつどこで買ったのかも覚えがない。
どんなことにも隠し事のない夫婦関係だったから知らないのもおかしいことだが
興味がないというのはそう言うことなのかと思う。
そんな中でたった一台だけ思いの深いカメラがある。
ニコンのSPと言って。軽いし精巧だから一時 ジャーナリストの間では
素晴らしいカメラだと定評があったが、生産台数も少なかったし、すぐに生産中止にもなった。
その時代としてはポピュラーに売れるのには値段が高かったからだろう。

新婚の1971年のことだがたまたま夫が小さな広告会社に勤めていた。
結婚式に肩書きがなくてはまずいだろうと言うので。
式のちょっと前に勤めだした。
私自身も私の家族も。別に肩書きなんかなんとも思ってはいなかったが。
まともな考え方をする夫の両親は無職では嫁に迎えるのに無責任だと考えたのだろう。
勤めた年の6月にボーナスが出た。
1年未満だから一月分。5万5000円もらった。
6畳一間に3畳ぐらいのキッチンに風呂とトイレが付いている
世田谷の文化住宅の家賃が2万5000円の時代だった。
実は私も夫も勤め始めて短い期間だから
まさかボーナスがもらえるなんて二人とも思ってなかった。
棚ぼたみたいな感じでその5万5000円で、夫の欲しがっていた中古のSPを買うことにした。
その頃SPはもう製造中止になっていて。カメラの中古屋を何軒もはしごして悩みに悩んで買った。
「結局ボーナスでお前に何も買ってやれなかったなぁ」と夫はちょっとすまなそうな顔をしたが。
私はそんな風にカメラを買うのが面白くて、自分のものを買ったような満足感を持てて楽しかった。
結婚後半年ほどで夫は会社を辞めたから、
後にも先にもボーナスをもらったのはこの一回限りでおしまいだった。

そろそろ夫の使っていたカメラも処分する潮時かなとは思っている。
カメラの社会もずいぶん変わってしまった。
ハッセルブラッドがこんなに安くなるなんて、あの頃誰が想像し得ただろう。
でもこのSPだけは絶対に手放す気持ちにはならない。
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by fusk-en25 | 2016-04-02 05:24 | 追憶 | Comments(8)

エイプリルフール。。

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エイプリルフール。 4月バカ。 フランス語ではpoisson d’avril(4月の魚)と言う。
4月の魚は美味しくないのかしら?
フランスに来てから「今日は騙してもいい日だったのよ」と聞いたことはあるが
この日に騙される遊びをやったことはない。

エイプリルフールが流行りだした頃だったか。
10歳ぐらいの時に「家出をする」とエイプリルフールに手紙を書いたらしい。
母が10数年前に納戸の整理をしていたら こんな手紙が残っていたと送ってきた。
わずか一枚の便箋に書かれたその手紙が面白くて残していた筈なのだが
スクラップを探してみたが見つからなかった。
文面は覚えている。
「家出をします。探さないでください。
ママの写真をもらって行きます。。これはエイプリルフールだから嘘です」と書かれていた。
息子に見せて笑った覚えがあるから、そのままどこかに挟んで紛れ込んでしまったのか。。
それにしても母のことをママなんて一度も呼んだことはない。
「母ちゃん」と呼んでいた。
宿題の日記を見てもお母ちゃんとか母とか書いている。
なぜこの嘘の手紙にママなんて書いたのか。
エイプリルフールが外国の習慣だと思ったからか。。
子供の頃は色々な遊びを考えるものだと可笑しく思いながら
家出したら祖母や母が騒ぐと思っていたのかな?などと
とりとめもなくそんなことを思い出していた。

自転車に乗る時に使おうとウエストポーチを縫っている。
母の着物の端切れの上布に裏をつけているのだが。。
半年ほど前に作りかけて、半分縫ってほったらかしていた。
近々にちょっと長めの旅行も計画していて、必要にせまられてまたとりかかり。
どうも前につけようとしてていた裏布が気にいらない。
つけていたのはしっかりした木綿でかさばるのになぜこれにしたのだろう。
解いて今度は絹布をつけて縫い直し。。
たった半年で自分の好みも変わるのかと不思議な気持ちがした。
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by fusk-en25 | 2016-04-01 06:45 | 手仕事 | Comments(6)