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煌めく光の中で


by fusk-en25

カテゴリ:追憶( 38 )

呼び名を。。。

孫は私のことを「ばあち」と呼ぶ。
生まれた時に息子が「なんて呼ばれたい?」と私に尋ねた。
母はおばあさんと呼ばれるのを嫌がって息子に「ちゃあ」と呼ばせていた。
大きいママとかグランマ、なんて変な呼び方は嫌だから、おばあさんでいいと言うと。
おばあちゃんにしようと言う、なんでもいいけどそれで結構。
孫はその「ちゃん」がうまく言えなかったのか端折って「ばあち」になったが、
彼が呼びやすければそれでいいと思っている。

日本の名称は難しい。夫のことも
夫。主人。宿六。亭主。旦那。うちの人。彼が等々。まさか今時「背の君」なんてことはないだろうが。
フランスならモンマリ(私の夫)一つで済むのに一体何を使えば適切か悩むことも多い。
名前にしてもニコルとかジャンとかマリーなどのプレノンだけで。
孫以外なら誰もおばあさんなどと呼ばない。
そんなことを考えていて、ふと姑のことを思い出した。

ある日。実家に寄った私に、真剣な顔をして姑が言い出した。
「私なあ、あんたに謝らんならんことあるらしいねん」
「ふうん。おかあさん。なんか悪いことしたん?」
言いにくそうに「あんたのことをF子と呼び捨てにして、
他の嫁さんには「ちゃん」をつけ呼んでるやろ。友達がそれはえこひいきや言うねん。
A美ちゃん(兄嫁)にも聞いたらな。
F子さん(私)が気ぃ悪したはるかもしれませんでと言いやんねん」
ちょっと悄気たような顔をしてボソボソと言う姑を見ていると
おかしくて吹き出してしまった。
「アホなこと。私そんなことちっとも気にしてへんで、
中学や高校の時もあだ名はなかった代わりにみんなに呼び捨てにされてたから」
「そやなあ。。Kちゃん(夫)があんたのことを呼び捨てにするからつい慣れてしもうて。
それになんとなくなあ、ちゃんをつけたらあんたには似合わへんし。よその子みたいな感じになるねん」
とホッとした顔をしたのがまた可笑しい。
自分の息子にはちゃんづけで嫁の私は呼び捨てかなんて私はその時もちっとも思わなかった。

確かに中学も高校も女の同級生は名前を呼び捨てにして、男の学生からは姓を呼び捨てにされていた。
今の歳になると呼び捨てにされていた舅や姑も、母や叔父も。そして夫まで亡くなってしまい。
知人友人も年下が多くなってくると。呼び捨てにされることも少なくなり。
かえってそれもなんとなく寂しいような気がする。

息子の宮参り、両側に嬉しそうな顔をした二人のおばあさんがいる。。。
この時からもう45年も経ってしまった。


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by fusk-en25 | 2017-02-22 07:36 | 追憶 | Comments(8)

ビールを。。

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若い頃。ビールはあまり好きでなかった。
お酒が飲めなかったわけではない。
ビールの苦味が好きでなくて美味しいとは思えなかった。

1973年から4年にかけて。
パリから南仏に移動しながら暮らしていた時期に。
ドイツに行ったことがある。レンタカーを借りて
パリからどこを抜けて行ったかはもう忘れてしまったが。
ミュンヘンまで。アウトバーンを使ってその日は1000km走ったのだけは覚えている。
着いたミュンヘンで、まず大きなビヤホールに入った。
ミュンヘンだからやっぱりビールね。とカウンターで頼んだ。
するとカウンターの一部分が開いて。
どーんと大きなビールの樽がせり上がって来た。
生ビールが樽ごと冷やされていて。そのビールのなんと美味しかったこと。
ビールってこんなに美味しいものなんだと初めて思った。
それ以来。開眼したと言うか。病みつきになったと言うか
ビールも飲めるようになった。

ただこう言うものは嗜好品だから好き嫌いは色々ある。
ハイネッケンやバドワー。フランスでならクロネンブルグなどの
メジャーのブランドは今でもあまり好きでなく、
キャフェでビールを飲むときもその店のテントに書かれたビールの銘柄を見てから入る。
家でも色々飲み比べては、アルコール度の違った好みのビールを何種類か冷やしている。



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by fusk-en25 | 2017-02-21 11:30 | 追憶 | Comments(4)

剥がしもの。。

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焙じた番茶を飲もうとしていて、
たまには違った湯呑みを使って。。と。
好きな染付の撫子の湯呑みを出して来た。
夫の実家で作られたものだが、釉薬の藍の色が冴えて。可愛い撫子のの花が浮き立つ。

私が嫁いだ頃はもう染付より、交趾焼と呼ばれる色物の器がほとんどだったが
まだいくらか日常雑器の染付も焼いていた。
この染付には素焼きの器にゴム糊で撫子を描き、釉薬をかけて
そのゴムを外す「剥がしもの」と呼ぶ手順がある。
ある日。実家によったら、姑がせっせと剥がしものをやっていた。
スルスルと面白そうに描かれたゴム糊を細いピンで剥がしていく。
私も手を出して、剥がしてみた。
スルスルどころかプツンプツンと糊のまくが切れてしまう。
「うまいこと剥がれへん」と私が嘆くと。
「ゴムの溜まったとこから剥がして、そうーっと引っ張ったら
お父ちゃんが一筆描きにしたはるから、すーっと外れるで」と笑う。
姑はどちらかというと不器用な人で、
彼女にできるなら私にも簡単に出来るだろうと思ってやってみたのに。
姑が5つか6つ剥がしている間に私はとうとう一つしか剥けなかった。
しかも切れたゴムの跡もプツプツ残っている。
しまいに「こんな肩凝ることできへんわ」と言うと。
姑がクスクス笑い出して「あんたやったら3、4日もすればできる」と慰めてはくれたが。。
職人の熟練とはそう言うものかと納得する思いだった。

久しぶりに撫子の湯呑みで焙じ茶を飲んで。
遠い昔になってしまった工場の情景を思い出していた。

2月11日。今日は姑の誕生日だった。


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by fusk-en25 | 2017-02-11 08:03 | 追憶 | Comments(4)
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1917年1月30日。
北米合衆国、オレゴン州、ワシントン郡、ビバートン市で父は生まれた。
祖父母がその10年ぐらい前(明治40年頃)に渡米して、開拓農民?として入植したらしい。
なぜまた寒さの厳しいオレゴン州なんかに入植したのかとは思うけれど。
その頃カリフォルニア州は黄禍政策をしていて入れなかったからだろうと想像はしている。
ただし父が一歳の時には引き揚げて帰国している。

もしも父が生きていれば今日は100歳の誕生日。
1949年の1月30日、32歳の誕生日に亡くなって 祥月命日も同じ日に当たる。

私は2歳10ヶ月になったばかりで、生後8ヶ月から療養生活をした父のことは何も知らない。
早くに亡くなった人にはそれなりの逸話が色々付いて回る。
新聞記者をしていたから、いつもポケットに「記事」を持っている人だったとか。
記事に何を書けばいいのかがどんな場所に行っても瞬時にわかった人だった。。
幼少の頃から家庭内新聞を作って配っていた。。などの。。

若い頃の私はそれがとても怖かった。
自分で知覚できないことがあたかも本当であるかのような錯覚に陥らないかと。
本当のことを知りたい、でも居なくなってしまった者にそれは望めない。
もしも父が生きて居たなら。。。とは絶対に思わないようにはしていたが。
もちろん自分自身でも幾らかのセンチメンタルになる気持ちは抱いていたと思う。
私の人生が変わったことは事実だろう。

結核を発病して、死ぬまでの2年ほどの間に何冊かの日記を書き残している。
単に病気のことだけでなくその頃の物価や、読んだ本。政治情勢。
時には愚痴も。たまには私のことも。

その日記をどうしてもまだ通して全部は読めない。
若い頃からパラパラと拾い読みすることがあっても。。
もうそろそろ解禁してもいいじゃないかと私自身も思うのだけれど。
出してみてはまた今度ねと棚にしまう。

数日前に
本棚の整理をしていて、新聞の切り抜きを挟んだ父の古いノートからポロリと一枚の紙が落ちた。
死ぬ少し前に書いた散文らしい。
もうとっくに父への感傷も何も風化している筈なのに。
読んだらなんとなくホロリとした。

祥月命日と生誕100年に敬意を表して。
一人では絶対に飲まないことにしているビールを今夜は特別にあけた。
酒好きだった父のために。乾杯。


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by fusk-en25 | 2017-01-30 11:31 | 追憶 | Comments(10)
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雨まじりの鬱陶しい天気だった。
予報では、来週はもっと気温も下がり零下が続くらしい。
冬だからねえ。。と慰めながらも。寒い、鬱陶しいとこぼす。

そんな天気だからでもないがカレーを炊いた。
玉葱をたっぷり入れたワインに牛肉を昨晩からつけて置き。
オリーブオイルでじっくり玉葱を炒め。
この玉葱の炒め方で、煮込み類の味は決まると言ってもいい気がする。
玉葱がきつね色に香ばしく炒まったら、トマトや人参の薄切りも炒め。
それから肉をさっと炒め、ワインや水をひたひたに入れて煮込む。
あとはグツグツ煮て、肉が柔らかくなったらジャガ芋も加え最終的にカレー粉を入れて味を整える。
もう市販のルーは使わなくなった。
ルーはアジア人街にしか売ってなくて、買い置きすると賞味期限が切れて捨てることの方が多い。
インド系の店で何種類か買ったカレー粉をブレンドして。
昔ながらの小麦粉をバターでしっかり炒めてルーもこしらえている。

カレーを炊いていて姑のことを思い出した。
結婚する前。
夫の実家に行っていてたまたま夕飯がカレーだった。
「お母さん。私にお皿を2枚ちょうだい」と言うと、姑は怪訝な顔をした。
私は汁物がかかったご飯が食べられない。
今でこそ雑炊もかやくご飯も五目ずしも食べられるようになって好きなぐらいだが。
今だに丼物、卵かけご飯。カレーは食べられなくて。
ご飯にさえお汁がかからなければいいのだからどの場合も上と下を別皿で食べる。
お腹に入ったら一緒だとイヤがらされても。どうしてもこれだけはクリアできなかった。

で実家の話。
姑は2枚のお皿をみて「お前。気ままやな」と言った。
すかさず私は。
「そらなあ、もしもどこかの家でカレーが出て来て。たった1回だけ食べるのやったら
無理に飲み込んでも食べる。
でもお母さんとは一生付き合いたいから。イヤはイヤやねん」と答えた。
姑が納得したかどうかは知らない。でも一応「そうか」とうなづいていた。
それ以来かどうか。。
嫂が二人もいる家で。私のように口答えする嫁も珍しかったのか。
誰か知らない人と初めて顔を合わせるたびに
「この子は口が悪いのやけど。気持ちはそうも悪くないから」と必ずコメントをする。
なんぼなんでも私だって、見ず知らずの人にズケズケ言わへんでと言っても。
「そやけどなあ、知らん人はびっくりしはるで」と笑う。
よほど姑のカルチャーショックは大きかったのだろう。
早くに亡くなって、一生どころかたった5年しか付き合えなかった姑だが。
事あるごとに懐かしい思いにかられる。






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by fusk-en25 | 2017-01-14 10:18 | 追憶 | Comments(4)

ピアノの音が。。。

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パリの下町には時々、
「あらこんな店があるのだわ」と思えるようなウインドウを見かける。
店と言うよりどちらかと言うと職人のアトリエに近い。
製本を手作りでやっていたり、建築用の模型を作っていたり。
標本の額がずらりと飾ってあったり、所狭しと部品が並んでいたりして。
そんな店先を見るとついつい長く眺めてしまう。

このピアノの付属品を売っている?らしい店もそうだった。
ウインドウいっぱいにピアノの部品が並んでいて、
眺めている間に年配の人が入っていった際にちらっと見えた店内には
ロール巻きのフェルトが何本も並んでいた。

ピアノの部品だとすぐに分かったのは
実家の古いドイツ製のピアノは母の子供の頃に練習用に購ったもので、
有に80年は経っていた。
その頃はまだ国産品も少なく、中古のドイツ製を譲ってもらったと話していたから
実際にはもっと年月を経たピアノだと思う。
私も、6歳からピアノを習わされたのは家にピアノがあったからだろう。
もしもピアノがなかったらあの嫌なレッスンを毎日やらなくてよかったのに。
嫌々やっていたあげく。音楽すら拒否するようになってしまったのは。
今になればちょっと残念な気もする。。

実家を処分するときにそれでもピアノのことは悩んだ。
長年誰も使わず放置されていて、半分鳴らなくなってもうどうしようもないところに来ていた。
何年か前に修理を専門にする店に問い合わせて見てもらった。
売り物にはならないが使われるなら費用はかなりかかるが治せるとのこと。
私が持って帰るわけにもいかない。
それでも家と一緒にユンボで潰すのは忍びない感じはしていた。
誰かに譲るとしても、使えるようにするにはかなりの費用もかかる。
悩んでいたら、若い従妹がもらってもいいと言い出して持っていってくれた。
しかも最近そのピアノを修理して使えるようにもなると言う。

パリの下町のピアノの部品を眺めていたら、ふとあの懐かしいピアノの音が聞こえるような気がした。

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by fusk-en25 | 2016-12-21 09:47 | 追憶 | Comments(6)

背景が楽しくて?

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「人形の写真でもこんな風に写すと面白いな。」
私が人形を作ると仕方なく写しはしても、動かない物を写すのがあまり好きでない夫は。
この写真を写しながらちょっと興奮気味に言った。
人形を写しているのでなく、背景の夕陽や空を 人形の影を写していたのだろう。
これも12月の柔らかな光が背景に満ちている。

12月2日は夫の誕生日だった。
もう今更の。。。月日も重ねたし。まさか誕生祝いをするわけではないが。
1993年に亡くなった舅が生きていた頃。
当時はまだメールなどと言う便利なものは普及していなくて。
週に1回ぐらいの割合で簡単な手紙を絵葉書を使うことが多かったが出していた。
3度に一度くらいは舅からも返事は来る。
夫の誕生日の頃になると。
必ずおめでとうから始まって。「お前が生まれた時は女の子のように可愛かった」と
毎年毎年同じことが書かれていた。
12月に生まれるなんて寒い時に、昔は瞬間湯沸かしもなくて。
オムツを洗うのにも冷たくて大変や。親不孝な子供やなあ。。と私が茶化すと。
「俺の知ったことか。。。」と夫は憮然としていた。
まして疎開先の例え姑の在所とは言え、他に3人も子供がいてそれは大変だったろう。
姑は田舎やから食べ物には不自由しなかったと言ってはいたが。。
夫はマザコンプラスファザコンに近かったから。
今頃あの世で親子3人が「お前の生まれた頃は。。。」と話をしているのだろうか?
と想いながら。3人が好きだったミルフィーユを供えた。


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by fusk-en25 | 2016-12-03 08:40 | 追憶 | Comments(0)
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マルシェの八百屋に柔らかなキャベツを見つけた。
フランスのキャベツは塩漬け(シュークルート)に使うような硬いものが主流だから。
「新キャベツ」書かれている柔らかなキャベツを見ると必ず買いたくなる。
コールスローに大根や人参と一緒に刻んでいて、これだけでは何か物足りない。
オイルサーディンを開けることにした。

缶詰といえば
フランスに来て、スーパの棚にある全種類の缶詰を食べてみたという人もいて。
4kgは確実に太りましたと笑っていたが。。
私も一人暮らしになった時に、便利かとチリコンカンやレンズ豆の煮たのを買って試したが
どうもあれは私には合わなかった。全然美味しくない。
それでも常備のために、ツナ缶。鱈肝の燻製。とうもろこしの水煮。トマトピューレ。
鰯はオリーブ油とひまわり油に水煮缶を置いている。

中学の1年か2年の頃だったか。
お弁当の時間に隣に座っていた男の子が。
白いご飯だけが詰まった弁当箱に、鯖煮缶か何かの缶詰を取り出して
缶詰についている小さな缶切りでキコキコと開け始めた。
それが彼の弁当のおかずだとわかった時は、もうびっくりした。
その頃の弁当は梅干しが入っているご飯に卵焼きか、焼いた小さな塩鮭か鱈子ぐらいが定番だった。
まして缶詰を開けるなんて状態は不思議としか思えない。
今になって考えると彼はおかずを作ってもらえない環境だったのかとは思うけれど
その頃の私にはなんとも新鮮な気がしてして
あんな事が出来るなんてモダンだなぁ。一度やってみたいと羨ましい気分はしたが。
まさか祖母に缶詰を持って行くとは言えなかった。。

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by fusk-en25 | 2016-11-16 08:45 | 追憶 | Comments(2)
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サンタクロースがいるか?いないか?

孫は6歳でおしまいになったが。
息子はサンタクロースの存在を11歳まで信じていた?風に見えた。
クリスマスイヴの日にたまたまルクサンブルグ公園を通りかかり。
10頭ほどの驢馬を引いている御者を見て。
「きっと今晩。あの驢馬に引かれた橇がやってくるよ」と真剣な顔をして言った。
トナカイと驢馬を間違えてるけど。。本人がそう言うのならそうだったんだろう。
すぐに大人になってしまうのだから
そんな夢?はちょっとでも長く持てた方がいいと。。私は思う。

1950年代の初め頃からだろう。
アメリカン文化センターが、産経新聞社のビルの中で
子供の英会話教室を週に1度(確か土曜日に)無料でやっていた。
私は英語には全く興味はなくて、ちっとも英語が判るようにはならなかったが。
センター内に常設されている子供の図書館に
その当時市販されていないような本が沢山並んでいた。
まだまだ児童書の少なかった時代。週に3冊ぐらいの本を貸してもらえた。
その本が読みたさに6歳から英語教室には通っていた。
一人で電車に乗って行ったのだから、よほど本に飢えていたのだろう。

私が10歳ぐらいの頃。おそらく1956年の12月24日。
クリスマスイヴの集いが新聞社の集会室で催された。
かなりの人数の子供が集まっていたから英語教室の子供だけでなく、
文化センターになんらかの関係のある子供もいたのだろう。

簡単な寸劇や、詩の朗読。歌を歌うだけの簡素な催しだったが。
会のおしまいになる頃。突然、ブルンブルンとヘリコプターの音がして。
屋上に通じる会場の扉がパッと開いて。
大きな大きな(そう思えた)外国人のサンタクロースが降りてきた。

「本物のサンタクロースがヘリコプターでやってきた」

降りてきたサンタクロース。
大きな袋の中から。その頃まだ珍しかった「棒付きキャンディ」を
子供たちに一つづつくれた。
なんと洒落たお菓子。。。とても嬉しかったのを憶えている。

私も何かを喋らされているようだが、そちらの方は全く記憶はない。


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by fusk-en25 | 2016-11-13 09:00 | 追憶 | Comments(0)
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パリも街並みこそほとんど変わりはないが。
一軒一軒の店となると、それなりの変化はある。
「ちょっと洒落てフランスらしい。しかも気取ってない」と思えるような店が少なくなった。
来た当時の40年前なら。。あったのに。。と言い出すと
「今時の若いものは。。」と散々言われてきた私自身の若い時を思い出しても
絶対に言いたくないのと同じで
「昔は良かった」とか。「フランスよお前もか」などとは言いたくもないのだが。。
チェーン店が増えて、小さな店の頑固そうな店主が少なくなったのはやっぱり寂しい。

20年ほど前。
ヴァスティーユ広場の周辺がファッショナブルと言われだした頃。
広場からさほど遠くない場所の小さなオイル屋に入った。
店主はぶっきらぼうな感じのおばさんで、
ファッショナブルな街のイメージに惹かれた?日本人が覗くことも時々あるのか、
「ふん。日本人か」と言う顔をして 「また何も買わないで出ていくのだろう。」
と思われた感じがした。
その頃私は、南仏の「レ、ヴォー」のオイルが好きで。
「レ・ヴォーが欲しいんだけど」と恐る恐る?尋ねて見た。
「オヤお前さん。ちょっとはオイルも知ってるのか?」みたいな態度には変わったが。
それでも素っ気なく「奥の方にあるよ」と言っただけで、また知らん顔をされた。
「ああそうですか奥にね」と行ってみたら、
どこの店でも1種類ぐらいしかレ・ヴォーのオイルはないのだが棚になんと7、8種類並んでいた。
どれを買おうかと思案して迷っていると、何かを奥に取りに来たついでに横に来たおばさんが。
「オイルはね。その人の好みなんだよ。色々使ってみて。自分の好きなのを決めるんだね」
そらそうでしょうとも。でも軽いとか重いとかあるじゃないかとは言えなくて。
試しに2本買ってみた。どれも飛び切り美味しかった。
しかもチェーン店よりはるかに安い。
その後、時々その店を覗くようになっても、ちっともおばさんの態度は変わらない。
3度目か4度目に「オリーブの実はないの?」と尋ねた。
「あんたね。うちはオイル屋だよ。実なんか置いてる筈ないだろ。もしもね。そんな物を置くと。
客は次は塩、次は辛子、そしてケチャップはあるか?と言い出すのに決まってる。
そんなことをしていたらオイル屋でなくて万屋だよ。だからうちはやらないんだ」とキッパリ言われた。
「酢なら少しはあるよ。サラダに必要だからね」とは付け加えられたが。。。
オリーブの産地からオイルが入ってくるのだから、実を売るのも簡単だろうとは言えなかった。

10年ほど前にこの店が閉めれた時。
ぶっきらぼうな愛想のない、でもしっかりと自分の売り物に自信を持っていた店主がいなくなったのは
なんだか損をしたような気がして、寂しかった。
「あの店があったら良かったのに」今もオイルを買うときには思う。
仕方がないからもう「レ・ヴォー」なんて言わないでBIOのオイルを色々買っては試している。


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by fusk-en25 | 2016-11-03 10:20 | 追憶 | Comments(2)